樺太 柯太の花とにほはむ(対露外交闘争 3)
二月はどうも日本の北方防衛にとっては魔の月である気がしないでもない。
思えば1854年2月7日、つまり安政元年十ニ月廿一日、中千島・北千島放棄を決断した日露和親條約(日魯通好條約)の締結。全ては其処から始まっている。
2月7日が「北方領土の日」なのであれば、樺太全島の権原の復帰をも考察せねばならないというのに、結果的に現日本政府は樺太を完全に忘れてしまった施策を代々続けて来たった。
旧暦とはいえニ月廿五日(新暦では3月30日)、日露間樺太島仮規則が締結され、日露和親條約以降続々と入植し来る露西亜人の扱いを法的に確立させる為に、所謂解説で「日露雑居」とされる所以を作った苦悶の仮規則だ。
そして、2009年2月18日、忘れてはいけない日となるであろう事は論を待たない。
現職日本国総理大臣が、敵国占領下に於ける豊原に足を踏み入れた。其憤懣は癒える事無く此数日続いている。そして一切其影響を報じない報道機関と、識者連中・政治家。戦後日本が歩み、忘れていった「何か」を具現化している状況が眼前にある。
而して5月はどうなるか。
明治8年(1875年)5月7日、今項主題の千島樺太交換條約(千島樺太兩島交換條約)が締結され、数百年来の血と汗が染み込んだ樺太が失われ、露西亜に無残にも占領された千島列島全島が日本復帰を果たした。
今年5月。露西亜プーチン首相が来日する。結果どのような形になるのか、注視は怠ってはいけない。
樺太復帰に対して、個人で出来る事は何も無いのかもしれない。
単身豊原に露西亜施政下である事を敢えて目を瞑り、「入国」し、「日本復帰」を叫ぼうものなら先ず露西亜官憲に逮捕は免れないが、さて日本報道機関は奇人が露西亜に「迷惑」を掛けに赴いたという印象で報道するであろう事は目に見える。ひょっとすれば他国治安紊乱という事で政府が帰国せしめたとしても、罪に問われるのかもしれない。
日本で樺太返還を声高に叫ぶ者達は果たして其歴史を知っているのか。民族派諸団体が結果的に正当の民族派団体ではない状況を鑑み、不法とも云える過大な価格の著作を企業等に不法販売するような輩が跋扈している現状、団体構成員が日本人ではない可能性が極めて高確率である現状を鑑みれば、啻々慨嘆するしかない。
ならばと、ネット上での記述を誰が読むとも知れない状況下の中で、只管略自己満足に過ぎないのかもしれないが、書いて行くより他に道は無いのかもしれない。
英語で物が書ければ一番いいのだが、日本人は戦後英語教育を御座なりにして来たし、自分も亦其状況下に甘んじた。英語は読むだけなら何とかなる(でなければ今もOS/2を使っていられない)が、書いて文を他人に読ませる事は不可能に近い。
先ずは日本人に読ませるという事で、こんな所に誰が来ているのか解らないが、敢えて書く。
豊原清(明治三年函泊桟橋建設抗議抵抗事件 被逮捕者)
よしや身は 雪と消ゆとも柯太(からふと)の
花とにほはむ 大和魂
本題に入る。今回は日露外交闘争第3編。千島樺太交換條約に関してである。因みに旧暦の年月日は漢数字であり、亜剌比亜数字は新暦である事を記し置く。
慶応三年ニ月廿五日(1867年)幕府苦衷の日露間樺太島仮規則が締結され、結果的に樺太島は日露和親條約で勝ち取った樺太島日本領の地位を捨て、日露雑居という不法とも云える地位迄後退し、より北方の状況は混沌を極める事となる。
第二條に設けられた「両国ノ所領タル上ハ」という文言は、和親條約の「是迄仕来通(意:アイヌ居住地日本領)」
から完全に数歩以上後退しているが、最低北緯50度の死守ならず、北緯48度は討議されても日本としては受け入れる事は不可能な状況である事を鑑みれば、全島所領を主張出来得る状況の方が「まし」だと判断してしまったのかもしれない。
時に日本は明治維新の渦中。迚ても対外外交に迄目を向ける余裕は新政府、幕府双方とも余裕無く、遂には内戦が勃発する事となる。
明治の御維新は江戸城無血開城を以て成り、更なる抵抗を続ける東北会津、蝦夷地箱館の戦闘を経て新政府は日本統治を徐々に磐石な物と仕来たった。其流血は避けられない物だったかもしれないが、或意味苦痛ではあった事と思う。だが、其過程中露西亜の樺太侵蝕は只管に続き、明治政府の苦衷はいやが上にも高まるのである。
明治に世が移り、版籍奉還、廃藩置県を経て北蝦夷は正式に其名称を樺太とした。樺太の行政単位は「州」であり、明治8年迄、樺太は「樺太州」として日本施政下にあった。からふとを「樺太」と書くか「柯太」とするかで政府内部で論争があり、結局は「樺太」となる。岡本監輔は「何れ国民は(からふと)と呼称しなくなる可能性が出る」として、最後迄反対であった。
現状、樺太の全てを失ってしまっている今、抑々「樺太」という文言すら使われなくなり、政府、報道機関其全てが「サハリン」という国辱的な呼称を以て樺太を呼び慣わしている。
国内統治未だ固まらない明治二年、露西亜遠渕に上陸。露軍200余名はムラブィヨフスクと此処を命名し占領した。同じく明治二年、大泊に露軍50余人上陸。アイヌ墓地を掠取し、兵営を築く。
幕府時代、鵞小門岬に『大日本国国境』碑を建立した岡本監輔は明治初頭函館裁判判事となり、開拓使から分離した初代樺太開拓使として樺太経営を担当。農工民200余人(一説500余人)を率い久春古丹(大泊)に公議所を設立。
其岡本に墓地狼藉を受けたアイヌ諸民は露軍の横暴に苦情を申立て、岡本は一路樺太の現況を報告すべく改名し帝都となった東京へ向かった。
明治天皇より御下賜金7万両と米5000俵を授かり、岡本は樺太久春古丹(大泊)へ戻る。
露陸軍准将デフレラトブィッチに函泊に兵営撤去、墓地のアイヌ住民への還付、上陸軍撤退を申し入れるが、明治三年一月、露軍は函泊に桟橋を建設開始した。
抑々、岡本の立場は一貫して「柯太(からふと)は全島日本領」であった。「日露和親條約締結時露人未だ樺太に居住せず、其地アイヌ居住地にしてアイヌ住居りたる所盡く日本領」というスタンスを貫き、日露和親條約、特に後年苦渋の締結となった日露樺太島仮規則は、幕府崩壊新政府に国政が還付されたのを受けて効力無しと言う理論から、樺太を日本領と完全に定める国境條約を締結すべしという考えを持ち、夫に沿って業務を司っていた。
桟橋建設現地でも其問題は露西亜側と討議される。
尼子外務大録は露軍撤退と桟橋工事注視を強く求めるが、露西亜プルトエフは傲慢不遜な態度を以て夫に応じ、日本側の要請を聞き入れる事も無い。
「露西亜は世界強国であり、先年クリミアで英仏と戦った。日本の如き小国が其露西亜に抗するのか?精鋭に抗するのか?」
日本側官吏は苦悩の涙を呑むしかなかった。
一月廿ニ日、川島元盈等6人が現地視察する。着々進む皇土内に於ける外国桟橋の建設の様。川島は死を以て阻止すると長官に申し出ていたが、岡本監輔 は之を慎むよう訓示し、視察6人は刀の柄を縛って居た。日本側視察団が接近するとプルトエフは2個小隊を率いて6人に発砲の構えを見せる。併し6人が胸を指さし、「さあ撃て」と斗りアイヌ語で「ピリカ、ピリカ」と言ったので、威嚇射撃に留まった。
併し6人が「桟橋工事を止める迄動かない」と意思表示すると其全員が捕縛される。
外務大丞 丸山作楽はプルトエフに会い、懸命な交渉により捕縛された6人は釈放される。だが、現状を具に観察し、其状況に苦慮した丸山は、東京に帰ると政府の樺太に対する考えの浅さに憤慨し、慰労金300両を突き返した上、敷香に鎮守府を置く事を提案具申した。
露軍函泊侵掠収まらない明治三年、開拓使から樺太開拓使を分離とは、先程記述した。開拓使は樺太開拓使の上位機関である。其開拓使次官に五月九日黒田清隆が任命される。夫が樺太の運命を決めてしまう事になって行く。
開拓使次官黒田は同時にに開拓使内樺太専務とした。黒田は樺太視察に赴き、八月に現地に到着。黒田は岡本と異なり樺太島仮規則の原則である「日露雑居」に沿う形で現地の露西亜当局と折衝し、当面の紛争を解決してから東京に帰還、報告を成す。岡本は此年閏十月に辞職した。
樺太開拓使を辞し、第一中学校教諭の立場となった岡本監輔は、翌明治四年『北門急務』を著し、樺太が古来より日本領であった事を詳らかに記録し国民への啓蒙を図るのであった。
東京に戻った黒田は、樺太の状況が此儘推移すれば三年しか保たないという建議を出し、北方開拓を本格化する必要を説いた。之が、開拓使十年計画という予算計画を産む事となる。該計画は十年計画の予算で、北海道の開発は加速したが、樺太の状況は基本的に変わらなかった。樺太には之以後高官が派遣される事も任 命される事もなく、樺太開拓使は明治四年(1871年)八月七日に廃止された。
状況は現場である樺太から外交交渉に移る。
明治四年九月、副島種臣が外務卿になると、樺太領有の解決を亜米利加(亜米利加公使はデ・ロング)に依頼。樺太の国境を「北緯50度線として問題を解決」を申し入れる。
所が此処で横槍が生じる。
英吉利公使のパークスは、三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通といった日本政府の重鎮を相手に「樺太は古船1艘の価値も無い。速やかに露西亜に譲渡すべし」と言い放つ。
英国を差し置いて米国に依頼した外務卿副島の態度に不満を募らせたバークスは日本側を利する事なく露西亜の味方をする事にしたのである。
西郷隆盛:
日本古来の版図を割譲する事は出来ない。
パークス(グラスを叩き割り):
露西亜と樺太を争うならば、日本は此グラスの様になるぞ
依頼を受けた米国側は其解決を辞退。副島は遂に奇策を弄する事となる。だが、其奇策は現在の日本政府も考慮をすべき物なのかもしれない。
其奇策とは、「露軍に占領を脅かされる自国領である樺太」を、買収する。
当時、南樺太が歴史的に日本領であることは世界各国が認めている事でもあったので、200万円で北緯50度以南樺太を買収し、此問題の解決を一気に図ろうとしたのだ。
是は諸外国の当時の情勢を鑑みても夫れ程突飛な奇策でもないのは前例があったからである。当時、露西亜はアラスカをアメリカに720万ドルで売却していた。夫を基に、日本は南樺太を200万円で買い取るという案件を模索する事としたのである。
200万円。其膨大な予算の産出。公務員初任給4円の時代の200万円である。現在の貨幣価値に換算すれば如何程になるのか。
明治五年十月副島は、ビュツオフに、買収提案を行った。
其買収提案を受け、ビュツオフは、斯く返答した。
「樺太」と「クリル」を交換しないか?
外交が樺太買収に動いている状況下、樺太の邦人の被害は続々頻発していた。露西亜は先年来日露和親條約の頃より樺太を流刑地として使用していた。日本民間人、官吏、少なからぬ防衛部隊は其周囲を露西亜犯罪者の集団、軍に包囲され来たっていたのである。
露人は日本人の漁場を荒らし、窃盗を働き、そして日本人女性を強姦する等の事件が多発した。明治6年3月には、露軍は大泊の日本人漁場と建物を放火焼却せしめたのである。
一方、世界情勢は目まぐるしく変わる。英露関係悪化に伴い露西亜政府は副島が提示した樺太売却論に傾き始める。所が其重要な時期に、副島は台湾問題で清国に派遣せられており、好機を生かす事が出来なかった。
黒田清隆は、副島不在の時期に樺太放棄論を有力者の間に広め、ロシアとの関係改善を謀ろうと策した。
黒田清隆が提出した建白書のタイトルと、樺太放棄に関して最も重要なる一文を下記に列記する。
樺太ノ任ニ赴クニ付意見ヲ陳ス 明治三年七月
北海道樺太開拓ニ関スル上奏 明治三年十月
樺太処分ニ関スル三方策 明治四年一月
樺太放棄ニ関スル上奏 明治6年2月
樺太処分ニ関スル前建議ノ裁決ヲ乞フ書 明治6年9月2日
樺太開拓事業ニ対スル決意 明治6年11月
開拓使廃止ヲ不可トスル意見書 明治7年3月24日
魯国ノ北地侵略其他内治外交ニ関スル建議 明治7年7月(?)
魯国ノ北地侵略其他内治外交ニ関スル建議草案 明治7年7月
明治六年十一月
臣清隆頓首再拝伏テ惟ルニ、樺太ノ地タル窮陰冱寒絶域ノ孤島ニシテ
中略
彼地中外雑居ノ形勢ヲ視ルニ、僅カニ数年ノ安ヲ保ツ可クシテ永ク其親睦を全スル能ハズ
北海道ノ近ヲ捨テ、独リ樺太ノ遠ニ従事スルハ、猶遠ニ行クニ近ヨリセザルガ如シ
中略
力ヲ無用ノ地ニ用テ、他日ニ益ナキハ寧ロ之ヲ顧ミザルニ若カズ。
故ニ之ヲ棄ルヲ上策ト為ス。
便利ヲ争ヒ紛擾ヲ致サンヨリ、一着ヲ譲テ経界ヲ改定シ、以テ雑居
ヲ止ムルヲ中策ト為ス。
雑居ノ役ヲ持シ、百方之ヲ嘗試シ、左支右吾遂ニ為スベカラザルニ
至テ之ヲ棄ツルヲ下策ト為ス。
中略
樺太ノ如キハシバラク忍デ之ヲ棄テ、彼ニ用ウルノ力ヲ移シテ、
速ニ北海道ヲ経理スル者、今日開拓ノ一大急務ニシテ、抑又我国ノ
富強ニ関スル所ナリ。
千八百六十八年ニ当リ露国所有メリケン北方ノ地大約十九万八千平方
里、其土人四万人ヲ併テ以テ米国ニ売与セシモ、蓋シ善ク其得失ヲ
預算シ、謀アリ、断アリト請ベシ。
改善とは、74000平方キロの北海道並の島を譲り渡し、元来は日本版図であった千島、5300平方キロを「交換」するというどう考えても不平等な提案を 有する土下座外交である。日本は当時、台湾問題(征台役)、征韓論が台頭しており、此処で北方にも問題を有するかどうかが政府の根幹の討議であったと思われる。
明治6年11月には、前述した樺太に関する建白書が上奏された。該書、樺太は「絶域の孤島」「窮陰冱寒」と表現し、樺太を価値の無いものとし、又、露西亜と争わず放棄する事が「上策」としている。黒田の定義は一方的見解であり過ぎ、日本にとっては益の無い物であったと思う。太平洋への出口を渇望していた露 西亜にとって、樺太を抑えるという事は悲願であった事は確かであろう。だが、其彼国にとっての悲願は現実日本の北方防衛には極めて由々敷き問題を露呈する物であった筈である。夫にも関わらず、結局太政官内部で、樺太放棄が決定した。
黒田が建白書を呈し、政府部内で樺太と千島の交換が決せられた丁度其時分、フランス公使パルテルシーから副島の下へ吉報が寄せられた。
露西亜は日本の要求を受け入れて、樺太を売却する事に決定した。
併し、副島と交渉を続けていたビュツオフが黒田建白書の情報を仕入れてしまったのである。
「樺太を買収するという案は貴官一人の案らしい。決議では千島と交換するとなっている。買収案を捨てなさい。」 副島の努力は無に帰した。
余談として。
プルトエフと懸命な交渉を実行した外務大丞 丸山作楽は、三条実美に、こう言った。
樺太を割譲する事は以ての外の悪政である。此決定を撤回せねば、貴官の前で割腹する。
明治7年1月、サンクトペテルスブルグに於て、榎本武明を全権大使としてスツレモーホフと樺太問題の交渉に入った。最悪樺太と千島は交換する。だが、日本政府は先ず自国の本来持つ権原を主張する事から始める。
榎本:
国境を間宮海峡としたい。
露西亜は当然其提案を蹴る。妥協案として国境を樺太内部に引く案を示す。併し露西亜は日本の内情をよく知っていた。明治政府の未だ国内統治が不安定であったのを利用し、「樺太内部に国境を引く事は、雑居よりも紛争を起こす原因になる」と主張し、飽迄千島と樺太の交換を主張した。
1866年にも露西亜は同様の提案(得撫、知理保以 北/南、武魯頓の"狭義中千島"との交換提案)をしているが、日本側は受け入れず(当時の日本側の案件は得撫から温禰古丹迄の"広義中千島"との交換条件 であった為)、樺太は北緯50度でも48度でも分割される事無く、雑居地となった。
明治政府は結果的に幕府が模索した案件に乗る事になってしまった訳であり、矢張り夫は不平等案件であったと考えるしかない。
千島の復帰は確かに悲願ではあったろう。明治当初の此時も。だが、夫以上に樺太の重要性を幕府は確信しており、明治政府は其確信がぐらついたと判断出来得る。
明治8年5月7日。
サンクトペテルスブルグに於て、千島樺太交換條約は締結された。
明治8(1875)年5月7日 「セント・ピータースブルグ」ニ於テ記名
明治8(1875)年8月22日 批准
明治8(1875)年8月22日 東京ニ於テ批准書交換
明治8(1875)年11月10日 布告
を経て、樺太は一時放棄を余儀なくされてしまったのである。
明治八年十一月十日太政官布告第百六十四号
今般露西亞國ト千島樺太兩島交換條約別紙ノ通取結相成候條此旨布告候事
(別紙)
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ帝祚ヲ踐ミタル日本皇帝此書ヲ以テ宣示ス朕全露西亞皇帝陛下ト望ヲ同シ朕ハ樺太島薩哈連島ノ内朕カ所領タル部分ヲ全露西亞皇帝陛下ヘ讓與シ全露西亞皇帝陛下ハ其所領タル千島群島クリールアイランズノ全部ヲ朕ニ讓與スル事ヲ互ニ決シタルヲ以テ雙方ノ全權重臣明治八年五月七日彼得堡ニ會 シ其條約ヲ締盟調印セリ即其條款左ノ如シ
條約
大日本國皇帝陛下ト
全魯西亞國皇帝陛下ハ今般樺太島即薩哈嗹島是迄兩國雜領ノ地タルニ由リテ屡次其間ニ起レル紛議ノ根ヲ斷チ現下兩國間ニ存スル交誼ヲ堅牢ナラシメンカ爲メ
大日本國皇帝陛下ハ樺太島即薩哈嗹島上ニ存スル領地ノ權理
全魯西亞國皇帝陛下ハ「クリル」群島上ニ存スル領地ノ權理ヲ互ニ相交換スルノ約ヲ結ント欲シ
大日本國皇帝陛下ハ海軍中將兼在魯京特命全權公使從四位榎本武揚ニ其全權ヲ任シ
全魯西亞國皇帝陛下ハ太政大臣金剛石裝飾魯帝照像金剛石裝飾魯國シント、アンドレアス褒牌シント、ウラジミル一等褒牌アレキサンドル、ネフスキー褒牌白鷲褒牌シントアンナ一等褒牌及シントスタニスラス一等褒牌佛蘭西國レジウン、ド、オノール大十字褒牌西班牙國金膜大十字褒牌澳太利國シント、ヱチーネ 大十字褒牌金剛石裝飾孛露生國黑鷲褒牌及其他諸國ノ諸褒牌ヲ帶ル公爵「アレキサンドル、ゴルチヤコフ」ニ其全權ヲ任セリ
右各全權ノ者左ノ條款ヲ協議シテ相決定ス
第一款 大日本國皇帝陛下ハ其後胤ニ至ル迄現今樺太島即薩哈嗹島ノ一部ヲ所領スルノ權理及君主ニ屬スル一切ノ權理ヲ全魯西亞國皇帝陛下ニ讓リ而今而後樺太全島ハ悉ク魯西亞帝國ニ屬シ「ラペルーズ」海峽ヲ以テ兩國ノ境界トス
第二款 全權魯西亞國皇帝陛下ハ第一款ニ記セル樺太島即薩哈嗹島ノ權理ヲ受シ代トシテ其後胤ニ至ル迄現今所領「クリル」群島即チ第一「シユムシユ」島第二「アライド」島第三「パラムシル」島第四「マカンルシ」島第五「ヲネコタン」島第六「ハリムコタン」島第七「ヱカルマ」島第八「シャスコタン」島第 九「ムシル」島第十「ライコケ」島第十一「マツア」島第十二「ヲスツア」島第十三「スレドネワ」及「ウシヽル」島第十四「ケトイ」島第十五「シムシル」島第十六「ブロトン」島第十七「チヱルポイ」並ニ「プラツト、チヱルポヱフ」島第十八「ウルップ」島共計十八島ノ權理及ビ君主ニ屬スル一切ノ權理ヲ大日本國 皇帝陛下ニ讓リ而今而後「クリル」全島ハ日本帝國ニ屬シ柬察加地方「ラパツカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峽ヲ以テ兩國ノ境界トス
第三款 前條所載各地並ニ其地産ハ此條約批准爲取換ノ日ヨリシテ直ニ全ク新領主ニ屬スル者トス但其各地受取渡ノ式ハ批准後雙方ヨリ官員一名又ハ數名ヲ撰テ受取掛トシ實地立會ノ上執行フヘシ
第四款 前條所記交換ノ地ニハ其地ニアル公同ノ土地、人ノ下手セサル地所、一切公共ノ造築、壘壁、屯所、及ヒ人民ノ私有ニ屬セサル此種ノ建物等ヲ所領スルノ權理モ兼存ス
現下各政府ニ屬スル一切ノ建物及動産ハ第三款ニ載スル雙方ノ受取掛役取調ノ上其代價ヲ案査シ其金額ハ其地ヲ新ニ領スル政府ヨリ出ス者ナリ
第五款 交換セシ各地ニ住ム各民(日本人及魯人)ハ各政府ニ於テ左ノ條件ヲ保證ス、各民並共ニ其本國籍ヲ保存スルヲ得ルコト、其本國ニ歸ラント欲スル者ハ常ニ其意ニ放セテ歸ルヲ得ルコト、或ハ其交換ノ地ニ留ルヲ願フ者ハ其生計ヲ充分ニ營ムヲ得ルノ權理及其所有物ノ權理及隨意信敎ノ權理ヲ悉ク保全スル ヲ得ル全ク其新領主ノ屬民(日本人及魯人)ト差異ナキ保護ヲ受ル事雖然其各民ハ並共ニ其保護ヲ受ル政府ノ支配下《ヂユリスヂクシヨン》ニ屬スル事
第六款 樺太島即薩哈嗹島ヲ讓ラレシ利益ニ酬ユル爲メ全魯西亞國皇帝陛下ハ次ノ條件ヲ准許ス
第一條 日本船ノ「コルサコフ」港即「クシユンタン」ニ來ル者ノ爲メニ此條約批准爲取換ノ日ヨリ十ヶ年間港税モ海關税モ免スル事、此年限滿期ノ後ハ猶之ヲ延スモ又ハ税ヲ收メシムルモ全魯西亞皇帝陛下ノ意ニ任ス全魯西亞國皇帝陛下ハ日本政府ヨリ「コルサコフ」港ヘ其領事官又ハ領事兼任ノ吏員ヲ置クノ權 理ヲ認可ス
第二條 日本船及商人通商航海ノ爲メ「ヲホツク」海諸港及柬察加ノ海港ニ來リ又ハ其海及沿岸ニ沿フテ漁業ヲ營ム等渾テ魯西亞最懇親ノ國民同樣ナル權理及特典ヲ得ル事
第七款 海軍中將榎本武揚全權委任状ハ未タ到來セスト雖モ電信ヲ以テ其送致スル旨ヲ確定セラルヽニ由リ其到ルヲ待タスシテ此條約面ニ記名シ其到ルヲ待テ各全權委任状ヲ相示スノ式ヲ行ヒ別ニ其事ヲ記シテ以テ左券トスヘシ
第八款 此條約ハ大日本國皇帝陛下並ニ全魯西亞國皇帝陛下互ニ相許可シ而シテ批准スヘシ但各皇帝陛下ノ批准爲取換ハ各全權記名ノ日ヨリ六ヶ月間ニ東京ニ於テ行フヘシ
此條約ニ權力ヲ附スル爲メ各全權各其姓名ヲ記シ並ニ其印ヲ鈐スル者ナリ
明治八年五月七日即一千八百七十五年四月二十五日五月七日此特堡府ニ於テ
榎 本武 揚(印)
ゴルチャコフ(印)
朕親シク右條約ヲ通覽シ其旨ヲ至當トス故ニ今此書ヲ以テ之ヲ全ク證認批准シ天地ト悠久ヲ期シ總テ條約中所載ノ條款ハ正ニ之ヲ遵行セン事ヲ約ス右定證トシテ爰ニ朕カ名ヲ親記シ國璽ヲ鈐セシム
神武天皇即位紀元二千五百三十五年明治八年八月廿二日
御名 國璽
奉勅 外務卿寺島宗則 外務卿印
附属公文
日本国皇帝陛下ノ政府ト魯西亜国皇帝陛下ノ政府ハ本日両帝国間ニ結ヒタル条約第四款ニ載タル件ヲ完成センタメ下名ノ者協議ノ上左ノ条款ヲ定ム
第一款 魯西亜帝国政府ハ本条約ノ旨ニ基キ日本政府附ノ建物及動産ヲ引受ヘキヲ以テ其代価ヲ日本政府ニ払フ事ヲ承諾シ日本政府ヨリ報知セラレシ金額即チ棟数壱百九拾四軒抱イカ 七万四千零六拾三円(日本「ドルラル」)及動産ノ代価壱万九千八百拾四円ヲ以テ其物価検査ノ基本トナス
第二款
1 本日取結ヒノ条約第三款ニ掲クル各地受取掛双方役人ハ各地ニ在ル建物及動産ノ両政府ニ帰スヘキモノヲ検査シテ其代価ヲ決定スヘシ
2 右双方役人ヨリ各地並ニ静動二産受取渡済及其決定セシ代価ノ届書落手ノ魯西亜政府附ノ物品代価差引キ余剰金額ハ各地並ニ静動二産公然受取渡済ヨリ六ヶ月内ニ比特堡府ニ於テ日本公使又ハ日本国皇帝陛下ヨリ別段ニ其命ヲ奉シタル人ニ渡スヘシ
第三款 本日結約ノ第五款中ニ陳スル交換セル各地ニ住ム土人ノ義ニ付テハ東京ニ於テ日本政府魯西亜弁理公使ト尚之ニ附録ス可キ条款ヲ取極ム可シソノ為メ入用ナル全権ヲ魯公使ニ附スル者ナリ
第四款
前条ニ載タル議定セシ件ハ同日記名セシ本条約ノ列ニ加ヘタルモ同シ権力アルモノナリ
右ヲ確定スル為メ下名ノ者此公文ヲ作リ以テ各其印ヲ調スル者ナリ
明治八年五月七日即千八百七十五年(四月二十五日、五月七日)比特堡ニ於テ
榎本武揚 (印)
ゴルチャコフ (印)
露西亞國ト千島樺太兩島交換條約明治八年十一月第百六拾四號ヲ以テ布告候處右附録別紙ノ通ニ候條此旨布告候事
(別紙)
千島樺太交換條約附録
明治八年五月七日即チ千八百七十五年四月二十五日露國聖比特堡府ニ於テ調印濟ノ公文第三款ニ基キ及同日調印ノ條約第五款ノ旨趣ヲ完全ナラシメ且施行センカ爲メ雙方讓與濟ノ領地ニ在住セル各政府臣民ノ權利及其身分且兩地方土人ノ?ニツキ日本皇帝陛下及全露西亞皇帝陛下ハ爲メニ各全權委員ヲ命シタリ即チ日本皇帝陛下ハ其外務卿寺島宗則ヲ之レニ任シ又全露西亞皇帝陛下ハ侍從兼コンセイヱーデターアクチユウエル日本在留辨理公使シヤル、スツルウエヲ以テ此ノ 任ニ宛テ雙方委任ノ書ヲ照應シ?實良好ニシテ其至當タルヲ見テ左ノ條款ヲ合議決定スルモノナリ
第一條 交換濟ノ各地ニ住ム日本及露西亞ノ臣民現ニ其所有セル地ニ在住セント願フモノハ自個ノ職業ヲ十分營ムヲ得且其保護ヲ受クヘシ又現在所有地界限中ニテ漁獵及鳥獸獵ヲ爲スノ權ヲ有シ且其生涯中自己ノ職業上ニ關スル諸税ヲ免スヘシ
第二條 樺太サカリヌ島及クリル島ニ在住セント決定スヘキ各臣民ハ所有ノ權利ヲ有スヘシ又現今所持ノ不動?ヨリ收入スル物件及所有ノ權利ヲ證明セル證書ヲ渡シ置クヘシ
第三條 樺太サカリヌ島及クリル島ニ在ル各臣民ハ自個ノ宗旨ヲ尊崇スル?全ク自由タルヘク又禮拜堂寺堂及墓所ハ毀害スヘカラス
第四條 樺太サカリヌ島及クリル島ニ在ル土人ハ現ニ住スル所ノ地ニ永住シ且其儘現領主ノ臣民タルノ權ナシ故ニ若シ其自個ノ政府ノ臣民タラン事ヲ欲スレハ其居住ノ地ヲ去リ其領主ニ屬スル土地ニ赴クヘシ又其儘在來ノ地ニ永住ヲ願ハヽ其籍ヲ改ムヘシ各政府ハ土人去就決心ノ爲メ此條約附録ヲ右土人ニ達スル日 ヨリ三ヶ年ノ猶豫ヲ與ヘ置クヘシ此三ヶ年中ハ是迄ノ通樺太島及クリル島ニテ得タル特許及義務ヲ變セスシテ漁獵鳥獸獵其他百般ノ職業ヲ營ム事妨ナシト雖モ總テ地方ノ規則及法令ヲ遵奉スヘシ前ニ述フル三ヶ年ノ期限過キテ猶雙方交換濟ノ地ニ居住セン事ヲ欲スル土人ハ總テ其地新領主ノ臣民トナルヘシ
第五條 樺太島及クリル島ノ土人ハ各自個ノ宗旨ヲ尊崇スル事全ク自由タルヘシ又寺堂及墓所ハ毀害スヘカラス
第六條 此條約附録ノ右五ヶ條ニ載セタル議定ノ件々ハ明治八年五月七日聖比特堡ニ於テ調印濟ノ條約ニ加ヘタルモ同シ權力アルモノナリ
右ヲ確定スル爲メ各全權委員此條約附録ヲ作リ二通ト爲シ以テ各其印ヲ調スルモノナリ
東京ニ於テ
明治八年八月廿二日
日 本 外 務 卿 寺 島 宗 則 印
露西亞國瓣理公使 セ、スツルウエ 印
岡本監輔の歌を記し置く。
死に到るも 看るは羞ず 柯太(からふと)島
090224昼夜 此処迄記す。
February 24, 2009 in 北方領土・樺太・千島列島・勘察加| Permalink |