TPmania’s blog

NiftyからYAHOO!に移り、今此処に来た。雑記。

勘察加抒情詩

YAHOO知恵袋で「勘察加(カムチャツカ=カムサツカ)半島は、日本領となった事があるのか」という趣旨の質問がされていた。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q118565801

つぅぅ。答えたいが、回答はとっくの昔に終わっている。そしてその回答全てが勘察加の日本領を否定している物斗りだ。知らないんだな。みんな。


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北方領土南千島ニ島と北海道付属島嶼しか認識されていない現状の教育と論調を見れば、江戸時代迄、厳密に言えば明治8年迄、勘察加は本来日本領たるべき 地域として認識されていた。夫迄は、宝永三年(1706)以降明治8(1875)迄は「露西亜占拠勘察加」という認識である。


元禄十三年(西暦1700)、北海道道南に其居城を持つ松前藩は幕府に各藩が定期的に提出している島郷帳、『松前島郷帳』を提出した。松前藩が統べる蝦夷樺太、千島、そして勘察加の住民記録台帳である。

繰り返す。
その中にある地名は蝦夷(北海道)、唐太(樺太)、千島列島、そしてクルムセ(勘察加)迄のアイヌ民族の戸籍を報告している。
本来島郷帳は米の石高をも記録する物であるが、米作不能の地帯であった当時の蝦夷地故に、米石高の記述は無い。
肇国以来、日本は蝦夷討伐を以て東進・北進して其施政権を拡大しつつ、大八州を確実に手中に収め、遂には蝦夷島、樺太迄達する。その過程は朝廷、国司管轄、幕府、と変遷しつつも、一朝天皇陛下を仰ぎ奉りその委任を受けた摂政・関白、太政大臣征夷大将軍が政治を司どるも国体は常に朝廷を影に日に中心として此国の施政権を拡大し、一君万民大和民族アイヌ民族も共に「日本人」として其施政権下にあった。

江戸時代、藩、幕府、国学者の認識は「アイヌの居住する所は夫が他国領近隣と雖も、日本領である。」


重要なのは西暦1700年時点の日本施政権下で、北方領域は勘察加迄をも含めていたという事に尽きる。
 
 
 
只、北方防衛の危機を認識した日本国内知識人の世論が沸騰した江戸中期から末期に於て対外防衛を十二分に施せる程には至らない迄に日本の防衛力は低下の極みであった。

勘察加はその領土報告であった元禄十三年を中心として日露双方の熾烈な駆け引きが開始されている時期でもあった。
元禄十年、露西亜は西比利亜最東端であるアナディール城からアトラゾフ(アトラソフ)アナディール城塞司令官を長に、勘察加半島南下を開始する。その軍勢 120人程度。勘察加西岸を南進し、処々に於てアイヌと交戦をしつつ侵掠を進める。状況は切迫しつつも松前から勘察加、江戸から勘察加は、遥かなる辺境地帯。何も出来ない状況に陥る。
アイヌの村、砦が侵食され次々と露軍は南下して行った。カムチャダールの部落にはカムチャダール人、アイヌ、その混血人の他に、大阪より漂流していた和人も居住して居たが、遂に防衛線撃破。彼は拉致され、モスクワに連行された。
因みに此日本人捕虜第一号の「でんべえ」氏は露西亜の記録にキッチリと残っており、1701年モスクワ連行後大帝に謁見迄している。その後1710年洗礼を受け日本語学校の校長として生涯を終えた。
露西亜は西比利亜の果てに「天子様と将軍の統べる大日本」が存在する事を認識し、日本語教育を露人に施す事をしたのである。後の日露交渉(商業・外交・軍事全て含めた意)の為と云える。

元禄十三年に松前藩が自藩版図と幕府に報告。
元禄十年に露将アトラゾフ軍が勘察加南下。

この場合、施政を敷いて居たのは日本が先であると認識出来よう。島郷帳で報告しているという事は其以前から施政下であるという認識があるからだ。
勘察加陥落は宝永三年(1706)。露軍は勘察加の南端より、占守島を眺め見た……


後年、樺太国境交渉では江戸幕府(日本政府)が、勘察加半島を古来日本領であったという認識を持っていた発言が記録されている。
日露国境交渉で、1854118日(嘉永六年十二月廿日)幕府代表・川路左衛門尉

「択捉の我国所領たること断然として疑を容べき所なく、古は、カンシャッカ(勘察加)迄も我国の所属にて蝦夷のみ居住致し候を、其後貴国人(露西亜)拠守するように成、夫れのみならず、樺太南岸の地我国所属にて是迄番(番所)をも差置来り候」


『古は、カンシャツカ(勘察加)迄も我国の所領にて』


此言葉は深く北方領土を考える人にとっては刻まなければいけない。
明治8年。日本政府は夫迄の「勘察加は日本領だが露西亜占領下にある」という認識を放棄し、遂に勘察加半島の放棄を決定した。


夫は同じ年千島樺太交換條約にて北蝦夷樺太州を放棄した時と重なる。日本は武力なく、外交能力もなく其各国と結んだ通商條約は全て不平等條約であり、士族のみの武装国民皆兵に変換した近代軍制にシフトして間も無い時であった。
黒田清隆樺太放棄論を露西亜側は探知し、日本に更に強く樺太放棄を迫った。そして遂に樺太は放棄せられたのである。
副島種臣黒田清隆の所業を激怒を以て攻撃し、自身が外務卿として樺太の防衛に苦心していた事全てを水泡に帰してしまった其悪しき條約を以て皇土保全の義務を成し遂げられなかった事を悔やんだ。

百数十年前1706年に失った勘察加は、「露国占領現状追認」という形でその権原を放棄した。其古来より持つ帝国の領土は武力・外交力無き故に遂に帰らぬ皇土となった。

勘察加半島に関しては後日談的な物がある。
明治37年、日露の戦いが火蓋を切った際、5月に占守島でその開戦を知った元海軍大尉で報效義会会長を勤め海軍将校時代より夙に千島開発に力を注いだ郡司成忠は、7月勇躍義勇兵を率いて勘察加半島南部西海岸ヤヴィノ村に上陸。
「天地長久日本領 報效義会会員占領地 明治三十七年七月十四日」
の碑を建立し、更に隣接して露文、英文を以て
「此地は日本占領地なり、故に此標柱に触るる者は殺さるべし。日本軍司令官 郡司成忠」
の趣意の注釈碑をも建立した。198年振りの領有回復への小さな一歩ながら大きな志であった。
が、志勇壮なるも敵露西亜は直ぐ様上陸部隊を邀撃。
郡司大尉は無念にも敵コサックに捕われる事となる。其後、日露講和條約成る迄捕虜として遇し明治38128日釈放解放となった。

郡司大尉の勘察加上陸が嘗ての帝国領土の奪還にあったのかと言えばそうではなく、純粋に勘察加への拡張が狙いであったのかもしれないし、滿洲に於ける義勇軍の使われ方が陽動作戦が多かった事も鑑みれば、軍事的に純粋なる陽動であったのかもしれない。
が、瞬時と雖も、明治日露戦争時に於ても政府公認という訳ではなくとも勘察加へ目を開いていた一人の海軍軍人と其義勇軍があったのは確かだ。


北の大地樺太と千島の復帰を模索する人は皆、極北の大地勘察加を忘れてはいけないのである。

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27日:明治二十ニ年国是に最も合致した図故に極東共和国1920-1922〉を含めた図に差し替える)
明治二十ニ年、明治天皇は主立った重臣を集め、西比利亜政策に関しての御下問をせられた。
第一に、東経120度以東の西比利亜に於る各民族、国民への援助・自治機運の拡大、果ては独立への拡大を模索し、日本海制海権を保安保持するを目標として外交・軍事を模索。
第二に、支那領土の保全を内外に闡明し東亜に於る日本の位置を高揚せしめる事。
を内々に国是とされた。
ソースは杉山茂丸著作『俗戦国策』。
夫は後の日清戦争日露戦争、西比利亜出兵時の白露軍と進歩的自由主義者を中心とした各民族を含めた極東共和国建国へと繋がる。

 極東共和国の性格は現時点反日路線と謳われ、確かに共産主義の性格が色濃い共和国であったが、建国の大本はアレクサンドル・コルチャーク白露軍の対赤軍戦であり、コルチャーク処刑後に建国を指導したアレクサンドル・クラスノシチョーコフはレーニンの支持があったとはいえ、どちらかと云えば共産主義ではなく進歩自由主義的な政策を持つ首班であった。日本は対赤軍緩衝地帯としての極東共和国を対露政策上利用出来得る立場であったと考えられる。僅ニ年の国の歴史であったが、西比利亜を押さえるという日本の国是は一時形に成りかけた。
極東共和国が潰えても尚、田中(義一)内閣時、杉山は総理に明治二十ニ年国是を進言しているが東経120度は貝湖(バイカル湖)付近を走る110度ラインに西進を考えて居たようだ。が、先年の極東共和国の版図を見れば非常によく解る。
杉山自身明治・大正日本の政策を深く知る立場にあった数少ない国士浪人であった故に、其言葉は重い。
其国是の内情にあった物は何か。其中には「失われた日本領土の復古」も入っていたのではないのかと推察出来得る。失った領土とは。明治二十ニ年当時、台湾は未だ日本領ではなく、朝鮮には独立開国を促し続け、清に対しても改革を促し続けていた時だ。其時の失地回復を画策する領土とは樺太全島であり、古百数十年前に失った勘察加だ。
東経120度ライン。後の極東共和国にピタリと符合する。

杉山茂丸頭山満(玄洋社)内田良平(黒龍会大日本生産党)、北九州から出でた勤皇国士達は、其眼を亜細亜に向け、尊皇と大亜細亜主義を標榜とし人種差別撤廃と亜細亜の復興を叫び続けた。
東亜の安定と日本を中心とした全亜細亜の復興は多くの大亜細亜主義者達に受け継がれる。
黒龍会出版部の『亜細亜大観』(大正7年編)を読めば、当時の全亜細亜の状況が手にとるように解り、又日本がどう進むべきか、諫言が附記されており、非常 に素晴らしい。当時の亜細亜各国と言うよりも各地域だな。日本、泰=暹羅以外は尽く植民地・属国化している)の各歴史・状況・民俗・将来への展望が一冊に纏められている。

 
樺太に少し触れる。樺太こそ帝国内地として純粋に返還を求めなければならない。
樺太は明治38年、独立第十三師団の奮戦により樺太全島奪還。そしてポーツマス媾和條約に於て江戸幕府が最低限のラインと定め交渉した北緯50度迄は帝国に復帰した。
畏くも明治天皇におかせられては、「朕の世に失われた領土が朕の世にて帰って来た」と慶びの言葉を宣せられた。

其後、西比利亜出兵時に北樺太(薩哈嗹)を再度奪還するものの、国際関係の重視を以て撤退。南樺太は昭和20年迄帝国領として保持した。
又昭和16年日ソ中立條約締結の際に日本はソビエト北樺太石油採掘権を返還した。正式にソビエトに返還したのは昭和19年。夫だけ日本外交に風雲急が渦巻いていた時期であったのである。薩哈嗹の全てを「諦めた時」でもあったのだ、あの大東亜戦争時点は。
が、昭和208月、遂にソビエト露西亜は中立條約を一方的に破棄し帝国本土である樺太と千島に侵攻。我国軍は自衛戦争に従事しつつも、時恰も御聖断下り、無念の涙を払いつつ92日降伏した。
そして桑港平和條約を以て其施政権原を放棄せられる事になったのである。だが、桑港平和條約にソビエトは調印を拒否した。露西亜に帰属は認められていないのである。

…………………………樺太に関しては何時か大きく纏めたいと考えている。


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世紀現在、過去に勘察加を失った状況と日本海に浮かぶ竹島の状況が被る。同じ状況である。屈辱の敗戦の後、有耶無耶の内に大韓民国は李承晩ライン設定を宣し、我国領土が侵食され、其奪還を政府が決定もせず、有り得ない「外交での回復」を目指している。竹島を失うという事は日本海制海権が揺らぐ事でも あり、看過出来ない状況だというのに
此儘では勘察加と同じく忘れられた帝国領となってしまう。そして将来に致命的な判断ミスをする政権が誕生したら
そうならずに、政府が断固として失われた領土の奪還を考慮する事を希望せずにはいられない。

宝永三年(1706)に失った帝国領土勘察加半島は現状の国際法的にも再び帝国の懐に戻る事は叶わないだろう。
だが、南樺太と千島列島は帝国内地であり、無念にも独立との引換えに法的に失ったのは昭和27(1952)である。諦めてはいけないのである。そして其の法は不備である。
日本が預かり知らぬヤルタ協定
中立條約破棄侵掠のソビエトの所業、
法的権原を放棄しても尚ソビエト(露西亜)の領有を認めていない桑港平和條約、etc…
北方領土とは「南樺太と千島全島」であって、歴史的に潜在的北樺太(薩哈嗹)もまた帝国領土として其復帰を模索していかねばならないのである。北緯52 度拉喀岬に建立された松田伝十郎の手による「大日本國境」、樺太最果て鵞小門岬に建立された岡本監輔の手による「大日本領」の両国境碑。夫を胸に秘め、北方領土を思わなければいけない。

結論として。
多くの人に「カムチャツカ半島は古来日本が一度その施政下に置いていた」事を知ってもらいたい。
そう思う。