松前島郷帳 (勘察加抒情詩 2)
国書刊行会の『続々群書類従』の元禄13年版の「松前島郷帳」を漸く閲覧。
内容を一気呵成に書き写した。
貸出禁止の書物(何故だ?)であり、市民図書館のコピーサービスを使うだけの資力もない(真面目に金は皆無だった。10円も無い)状況故に、書き写しを敢行した。
蝦夷地を松前藩直轄地として東西に分割し、夫々の直轄地地名及管轄下に置いた残蝦夷地区域の地名と共に、千島列島、樺太、そして勘察加南部の各地域地名を記録している。
先日「勘察加抒情詩」で記したように、米の石高は記録しておらず、純粋に統括地版図情報と云える。
下記に内容を記す。
松前島郷帳 元祿十三年
前略
くるみせ島の方
一いるゝ 一つもしり 一きいたつふ
一もしりか 一くなしり 一もうしや
一はるたまこたん 一まかんるゝ 一おやこば
一しやむらてふ 一らせうわ 一しりんき
一あとゑふ 一くるみせ 一ゑかりま
一うるふ 一ゑとろほ 一ほんしにおゝい
一しいあしこたん 一ゑばいと 一もとわ
一けとない 一もしや 一しいもし
一らつこあき 一うせしり 一れにんげちや
一ふかんるゝあし 一まさおち 一しいもしり
一ゑかるまし 一まかんな 一しりおゝい
一こくめつら
中略
からと島
一うつしやむ 一こくわ 一つなよろ
一まをか 一のたしやむ 一おつちし
一きどうし 一いといまて 一おれかた
一ちやほこ 一なふきん 一にくぶん
一きんちば 一びんのき 一うへこたん
一かれたん 一せうや 一しろいところ
一しいた 一ないふつ 一あゆる
一人居村數八拾壹箇所 一蝦夷人居所百拾箇所
一惣島數四拾八箇所 一田地高無御座候
之を現在の地名に置き換えるとする。
惜しむらくは全地名を照合出来ていない。之は由々しき事であり、是非とも全地名の照合を何れかの手段を以て完遂したいと思う。
くるみせ島の方
一いるゝ 一つもしり 一きいたつふ
一もしりか→牟知列 一くなしり→国後 一もうしや
一はるたまこたん→春牟古丹 一まかんるゝ→磨勘留 一おやこば→阿頼度
一しやむらてふ 一らせうわ→羅処和 一しりんき→志林規
一あとゑふ→勘察加 一くるみせ→勘察加 一ゑかりま→越渇磨
一うるふ→得撫 一ゑとろほ→択捉 一ほんしにおゝい
一しいあしこたん→捨子古丹 一ゑばいと 一もとわ→松輪
一けとない→計吐夷 一もしや 一しいもし
一らつこあき→雷公計 一うせしり→宇志知 一れにんげちや
一ふかんるゝあし 一まさおち 一しいもしり→新知
一ゑかるまし→越渇磨 一まかんな 一しりおゝい→知理保以
一こくめつら
からと島
一うつしやむ 一こくわ 一つなよろ
一まをか→真岡 一のたしやむ→野田 一おつちし→落石
一きどうし→木透 一いといまて→衣堆 一おれかた
一ちやほこ 一なふきん 一にくぶん
一きんちば 一びんのき 一うへこたん→植子谷
一かれたん 一せうや 一しろいところ
一しいた 一ないふつ 一あゆる
樺太の地名が追従出来ないのは非常な問題であり、多分に絶対対応作業はデータとして残っている物と思うのだが、ネット上に散見出来得ないのが口惜しい。
樺太が北緯51度の落石つまり露西亜名亜歴山港の辺迄1700年には日本として其版図に組み入れ幕府に報告を為し、愈々北辺北樺太拉喀崎、鵞小門岬迄も睨んでいた事が窺えるのである。
一人居村數八拾壹箇所→和人居住村81ヶ所
一蝦夷人居所百拾箇所→蝦夷居住所110ヶ所
一惣島數四拾八箇所→総島数48ヶ所
一田地高無御座候→田地石高は無し
郷帳の体裁としては他国(他藩)の物と比べれば非常に簡素過ぎる物であり、『続々群書類従』の「松前島郷帳」の前に収録されている「琉球國郷帳」は琉球國惡鬼納島(りゅうきゅうこくおきなわとう)を先頭に非常に詳しい記述が為されていて、資料として実に魅力的な物がある。
しかし、「惡鬼納」とは、亦強烈な当字を…。
「松前島郷帳」を提出の際、松前藩は自藩版図を描いた『元祿御國繪圖中松前蝦夷圖』を附属して幕府に提出をした。各国各藩提出絵図であり、夫を以て『元祿御國繪圖』が完成する。
測量技術未だ成らず、蝦夷、北蝦夷、千島、勘察加を表わすには非常に拙い絵図なのであるが、其努力を見るべきものであり、国家の版図を測量法を以て実測し作図する伊能忠敬の測量開始寛政12年(1800年)迄、丁度100年という歳月を待たなければいけない。
が、此絵図の持つ意味は「樺太と千島がアイヌ(倭奴)民族の居住地であり、アイヌ(倭奴)民族が居住する所は日本境内である」という事を表わす物である。アイヌ民族は日本を構成する重要なファクターであったのである。
発禁処分となったが林子平『海国兵談』に於ても倭奴と和人の統合を強く主張し、対露政策の充実を叫んでいた。
同じ仙台藩の工藤平助の『赤蝦夷風説考』を嚆矢とした対露政策論議の発展は、実に日本学界、政界の特筆すべき政治課題であり、北方防衛の重要性を今更ながらに重視していくのであるが、その機運が土台にあったからこそ、幕府の対露樺太国境交渉は引く所なかったのである。
「本来は全島が神州の領土であり、貴国との合議で分割するとしても最低で50度。48度なんて論外」
此姿勢が明治政府の一部(黒田清隆を筆頭とする)に受け継がられなかったのが残念である。
明治に於て、一時樺太の購入を画策し、副島種臣が其方策を練りつつあったが、黒田清隆の樺太放棄論が政府の見解となってしまったのは返す返すも残念であるとしか言い様がない。夫でも猶多くの政府要人が樺太放棄を反対したというのに。
話が飛んでしまった。
…そしてアイヌが北千島占守島以北に勘察加を見、其少なくとも南部を居住地としていた事が重要であり、千島アイヌが僅か120人の露軍に勘察加を追われ、北千島・中千島を追われて行くのである。
松前藩の防衛態勢の脆弱さは先ず勘察加を失い、千島は得撫迄掠め取られ、遂には樺太迄も脅かされた。
其間、100年以上の歳月を有するが、将に200年内にて日本は一度樺太を失い(明治8年、樺太千島交換條約)、そして次の100年を待たずに千島、樺太の全てを失ってしまった。
失った皇土は取り返す事は出来ないのか。そんな訳はないと考えている。1951年の権原放棄は永遠ではない。
道は遠くとも、北の大地を再びこの国に帰する事を画策して行く人が現れる事を望み、期待して止まないのである。
January 31, 2009 in 北方領土・樺太・千島列島・勘察加| Permalink |