樺太 見果てぬ北の大地
2月7日の日露通商條約締結日(当然太陽暦換算で2月7日である)を記念し、南千島を「固有領土」として返還への誓いを新たにする「北方領土の日」 も、帝国の国の始りを記念とし、肇国の志を再び胸に刻む紀元節(どうしても建国記念の日とは言いたくはない)も無事に過ぎた。無職の日々は相変わらずだが、ネット上では細やかに樺太への噂が流れている。
先日来、勘察加に関しての記述を続けたが、 勘察加の歴史的経緯は兎も角として、現在の日本が勘察加を復帰させる運動を起こすのは甚だ夢物語に過ぎない。宝永三年(1706年)に露西亜に強奪せられ、明治八年(1875年)に正式に其権原を放棄した勘察加を日本領として考えるのは歴史的経緯を忘れずに幕府の持っていた歴史観の正当性を認識すると同時に其苦渋を痛感する事が失った「くるむせ」への偽らざる態度であり、思いだ。
近代国家としての日本が北の版図を考える時として、筆頭に挙げられるのは千島・樺太であり、夫れを考えない訳にはいかないと同時に、現在に於ても潜在的主権は日本にありと考える物である。
扨も麻生総理大臣が南樺太大泊女麗に於るサハリン2開通式典への招待を出席するという決定と相成り、南樺太の露西亜統治は「認めない」という従来の 日本政府の立場をも逸脱する行為に出る由々しき事態が後数日に迫る中、昨年末以来ネット上に燻る一つの噂と樺太に関しての記述を進めて行きたい。
項目を変えず、数日に渡って同項目に記述していこうと思っている。長くなっていくと思う。
此地図は1988年の未だソビエトが存在していた時の地図であり、面白い事には国境が定まっていないという形で発行された物である。日露通商條約始り、千島樺太交換條約、ポーツマス媾和條約、桑港媾和條約迄の国境を全て記入し、猶且南千島と北海道附属島嶼、所謂「北方領土」迄ご丁寧に説明記述されている。面白い事には、宗谷大泊間の宗谷海峡上の国境が記されていない。或意味樺太は帝国領土と考えている人達にとっては素晴らしい地図ではある。
樺太は、南樺太の国際的に認可された分だけではなく、北樺太(薩哈嗹)も含めて日本が其開発に力を入れて来た大地であった。北海道たる蝦夷地以上に其力を注いでいたとも言えるかもしれない。
先ず、歴史開闢以来当時当時の諸外国は大日本版図をどのように見ていたか。
朝鮮の史記に、『海東諸國記』がある。当時明と朝鮮は倭寇に悩まされていた時期であったが、日本へ外交使節として渡来した申叔舟が明成化七年辛卯季冬、我朝後土御門天皇文明三年西暦1471年に記述した書である。
序文に於て、日本の説明が記されている。
以下、漢文儘記述を進め、読み下し文を付記する。
海東諸國記 申叔舟 著 (明成化七年辛卯季冬、我朝後土御門天皇文明三年 西暦1471年)
序文より
臣叔舟久典禮官、且甞渡海、躬渉其地。……竊觀、國於東海之中者非一、而日本最久且大。其地始黑龍江之北、至於我濟州之南、與琉球相接。其勢甚長。 厥初處々保聚、各自爲國。周平王四十八年、其始祖狭野起兵誅討、始置州郡、大臣各占分治。猶中國之封建、不甚統屬。習性強悍、精於劍槊、慴於舟楫。與我隔海相望。撫之得其道、則朝聘以禮、失其道、則輒肆剽窃。前朝季、國亂政紊、撫之失道、遂爲邊患。沿海數十里之地、廢爲榛莽。
読下文 (漢字改編有)
臣叔舟久しく禮官を典どり、且つ甞て海を渡り、躬《みずから》其地に渉《わた》る。……竊《ひそか》に觀るに、東海の中に於て國する者一に非ず、而かも日本最も久しく且つ大なり。其の地黑龍江の北に始まり、我が濟州の南に至り、琉球と相接す。其の勢甚だ長し。厥《そ》の初め處々保聚し、各自國を爲す。周の平王四十八年、其の始祖狭野、兵起して誅討し、始めて州郡を置き、大臣各占分治す。猶ほ中國の封建の如く、甚だしくは統屬せず。習性強悍にして、劍槊に精 《くわ》しく、舟楫を慴る。我と海を隔てゝ相望む。之を撫するに其の道を得れば、即ち朝聘禮を以てし、其の道を失すれば、即ち輒《やや》もすれば剽窃を肆《ほしいまま》にす。前朝の季《すゑ》、國亂れ政紊れ、之を撫する道を失し、遂に邊患を爲す。沿海數十里の地、廢して榛莽と爲る。
徳富蘇峰『近世日本国民史』第七巻「朝鮮役」より
樺太領有問題で重要なのは、以下の文章。
「其地始黑龍江之北、」至於我濟州之南、與琉球相接。
「其の地黑龍江の北に始まり、」我が濟州の南に至り、琉球と相接す。
黑龍江より始まるという事は、当時の支那(明)・朝鮮は黑龍江付近の韃靼・女真・オロチョン等の北狄からの情報を以て、唐太島は「倭」の領域と認識していた事が伺える。
日本国内に於る北蝦夷・樺太の状況は如何であったか。
少なくとも、日本古来の版図「大八州」内ではない事は認めねばなるまい。
支那『山海経』に於ては「扶桑」を述べた項目にアイヌを思わせる記述がある。『山海経』「海内北経」では倭の説明もある。
過去、扶桑=樺太説があった。だが、「扶桑」とは日本としては日本国其物の異名であり、扶桑と倭双方の記述を北と南から俯瞰した日本と捉えるべき物ではないのかと思っている。
支那の観点では倭と日本は別王朝という観点であり、『舊唐書』に於て、
日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。
と記されているように、或種日本国六十余州を「割って」考えていたと考えられる。
海外の視点はさて置いて、日本国内に於てはどうなのか。
宮城県多賀城市に「去靺鞨國界三千里」の碑がある。天平宝字六年つまり、奈良時代西暦換算で762年の建立だ。
多賀城碑は、啻に靺鞨国との境から当地への距離を記した物ではなく、日本内地各地からの位置を記している。
去京一千五百里
去蝦夷国界一百廿里
去常陸国界四百十ニ里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
沿海洲靺鞨國との国境から三千里。夫れは丁度樺太北端からの距離を指す。
だが、極北の大地の開発が実地に着手する事になったのは更に時を経た1600年代、日本に於て徳川幕府の治世が始まってよりの事と言っていい。夫迄は確かにアイヌ居住の地であり、縄文文化から派生した続縄文文化、擦文文化を経て蝦夷、北蝦夷はオホーツク・アイヌ文化が繰り広げられ、松前藩を北方の先鋒として和人との交渉が始まった。
後日に続く。
090215夜半 此処迄記す。
先述の多賀城碑文、距離計測を施し、確認してみよう。
多賀城からの各所距離
(京) 奈良:1500里→(和里換算)5998km→(現状)628km→(支那里換算)750km
茨城県 :412里→(和里換算)1644km→(現状)215km→(支那里換算)206km
栃木県 :274里→(和里換算)1094km→(現状)212km→(支那里換算)137km
韃靼海峡:3000里→(和里換算)11976km→(現状)1500km→(支那里換算)1500km
各所の起点終点は仙台から茨城は水戸、栃木は宇都宮、奈良は奈良を目指し、韃靼海峡は北樺太拉喀崎を少し超えた最も海峡が狭まる場所を使用した。そして全て直線距離である故に、100位内の誤差は生じる物と考える。
奈良時代、一里4kmの和里があったかどうかは寡聞にして知らないのだが、其数値の誤差の過大なるを見れば和里換算ではないだろうと推察される。之が和里だとするならば、当時天平時代の日本人の数字認識を余程馬鹿にしたものであると言わざるをえない。
併し、支那里0.5kmを当て嵌めれば素晴らしい結果を見る事が出来た。
日本が明示的に樺太、即ち北蝦夷を其版図であると認識し、開発に着手を始める明らかな記録は先述の様に、江戸時代迄待つ事となる。
勿論夫れに繋がるべく蝦夷征伐の名を持つ東北方平定の道は随分早い段階での蝦夷地への道を見出だし、北方平定の軍事行動(蝦夷征伐、前九年の役、後三年の 役、奥州藤原氏帰順、奥州征伐 etc...)の多くが都にとっては無事に終わり、辺境北方に於ても「京を中心とする政治」が執り行われるシステムが確立されていった。
寛永十ニ年(1635年)松前公廣が北蝦夷調査の名目を以て家臣を樺太へ派遣。
翌十三年には西能登呂岬に上陸し越冬。其間、敷香を検分し、江戸幕府 三代将軍家光に藩領土として北蝦夷をを報告。
樺太の地は認識し、概ね通商での関係を現地アイヌ、ギリヤーク、オロチョンの各民族相手に結んでいた事は確かであろうし、現実南北朝時代の具足が出土されてもいる。当時周囲の諸国も日本は黒龍江より始まるとの認識を持って居たし、少なくとも日本内地に於て津軽、南部、松前の各藩は北の方を向いて蝦夷地の奥に はもう一つの大地があると認識していた。
だが、国家として明確に其版図であるとして開発に乗り出したのはどうしても1635年以降であると考える。
延宝七年(1679年)、松前藩は大泊に陣屋を設置。恒常的に樺太在住の官吏を置事となった。其十年後には松前藩は、蠣崎伝右衛門を以て樺太地図作成。
大泊に足場を築いた松前藩は、其後約100年間開拓、特に漁場開発に力を注ぐ時を迎える事となる。
翻って。
露西亜が明示的に樺太を認識したのは1742年。和暦寛保ニ年の事である。
黒龍江界隈の測量隊が、対岸の樺太に渡り、北緯50度付近に至ったというのが最初のようである。
だが、西暦1700年代は勘察加、千島の露軍南下侵掠の時であったが、何故か樺太に露西亜が手を染めるのは1800年代に入ってからであった。
1706年 勘察加陥落
1711年 占守島陥落
1713年 幌筵島陥落
1738年 得撫島陥落 (露人居住開始は1766年)
西暦記述なのは露西亜軍の動向故に致し方がない。
対し宝暦四年(1754年)、松前藩は「国後場所」を開設し直轄統治を定める。
茲に於て得撫まで掠取した露西亜が国後で日本とぶつかり合う事になる。
が、寛保ニ年の露人測量隊韃靼海峡越境以来樺太への侵入はなく、松前藩は、漁場開拓の為に延享四年(1747年)から宝暦元年(1751年)に懸けて屡々樺太を調査し、宝暦ニ年(1752年)には大泊他に漁場を開いた。
「アイノ居住所、即大日本」
此考えは松前藩、幕府、そして市井の学者達も共通して持って居た考えと見て取れ、天明元年(1781年)、仙台藩在工藤平助は『赤蝦夷風説考』を著 し、北方防衛の喫緊性を熱く説く。其十年後の寛政三年(1791年)には林子平が『海国兵談』に於て「倭奴と和人の統合」を強く主張し、対露政策の充実を叫んだ。
其直前、幕府も亦北方防衛の喫緊性を重視し、天明四年(1784年)、幕府・田沼意次は山口鉄五郎高品等を北方へ派遣。調査先は、国後・択捉・得撫島と樺太・宗谷地方。
本項主題である樺太は、能登呂半島の白主に渡り、多蘭泊や樺太名寄等を巡視。
其調査報告は、同行していた最上徳内の『蝦夷草子』が著名である。
当時19世紀直前の時代は樺太よりも千島の防衛が喫緊であり続けた。1700年代全般に渡って露西亜は勘察加から千島を侵蝕し、松前藩、幕府は手を拱くより他にはなかった。
東蝦夷地の島々、太古より松前所在の島の属島にて、日本種類の蝦夷人住居すれば、即ち日本境内に疑い無し。然るに近来、赤人(露人)共、年をおって多く渡り来り、二十一島を押領し、諸産をとり租税とす。
千島列島其全ては本来日本領であるという認識が此徳内の文から読み取れる。アイヌ(蝦夷人)は日本民族の一種という考えは当時としてもあった事が此短文からでも窺える。
享和元年(1801年)、幕命により唐太(樺太)を見分した御小人目付高橋次太夫と普請役中村小市郎は「唐太嶋見分仕候趣左ニ奉申上候」を提出した。巷間、複写本の題名が『唐太島巡視』として知られている。
唐太島巡視
唐太島見分仕候趣左ニ奉申上候
一、唐太島ハ西蝦夷地宗谷ヨリ北ニ当十八里ノ渡海ニシテ白主ト申所ヱ著岸仕候……
から始まる報告書である。
斯様に日本側の現在で言えば直轄自治体である松前藩、政府である幕府は共に樺太への探査、測量、そして開発を成し続けていた。見果てぬ北の大地は、島なのか、支那大陸韃靼と繋がる半島なのか。夫れによって防衛戦略が大きく左右される。北へ、北へと進む樺太探査は今や最高潮に達しようとしていた。
そして、1806年を迎える事となるのである。
以下次項。
090215昼夕 此処迄記す。
-後記-
項を改めないと先に記したが、思う以上に長大となるので、大きく区別をする事とする。
次項以降、樺太と千島を巡る外交戦に筆を進める。2月7日が北方領土の日ならば、其版図は南千島だけでは済まないという事をより記すつもりではある。
February 15, 2009 in 北方領土・樺太・千島列島・勘察加| Permalink |